展示・イベント

河井工房 三代展 – 河井武一、河井透、河井亮輝 –

概要
作家・主催者 陶芸家:河井武一、河井透、河井亮輝
企画:Art agent Kaïchi (上村 優)/ ⼤倉未沙都
期間 2021年7月28日(水)~8月8日(日)
時間 9:00~18:00 ※最終日17:00迄
備考 ●作家在廊予定日
  河井亮輝 7月28日(水)、8月8日(日)
 ※変更の可能性もございます。

●河井武一
明治11年 島根県安来に生まれる
昭和2年  京都河井寛次郎の下にて、陶磁器制作業
昭和17年 一年来北支窪場にえ勉強
昭和24年 国画会会員
昭和28年 独立自作に専念
昭和34年 東京・大阪高島屋にて個展(以後毎年継続)
昭和39年 シドニー・メルボルン・ニュージーランド・ウエリントンにて個展
昭和53年 高島屋の厚き配慮に依り作陶50年展を東京・岡山・横浜にて開催

●河井透
昭和16年 陶工河井武一の長男として生まれる
昭和37年 父のもとにて作陶生活に入る
      併せて大叔父寛次郎に薫陶を得る
昭和52年 広島福屋にて父子展(以後個展継続)
平成13年 JR名古屋高島屋にて個展

●河井亮輝
昭和50年 祖父 河井武一、父 透の長男として生まれる
平成7年  京都府立陶工高等技術専門校、陶磁器成型科卒業
平成8年  同校 陶磁器研究科卒業
平成12年 父 河井透に師事


レポート

大正から昭和にかけて活躍した陶芸家 河井寛次郎。華やかな作品が美しいとされた時代に、価値がないとされていた日常用途の器に新たな価値をと、民藝運動をお越し陶芸界に新しい道を導かれました。
今回、河井寛次郎の甥 河井武一を初代とする河井工房三代展が、町屋の土間を中心に沢山の作品がお披露目されました。

河井武一:勘次郎氏の下で約40年指導を受け、勘次郎の民藝芸術を継承。
1976年に京都亀岡に南丹窯を築く(登窯・ガス窯)

河井透 :武一氏の長男。
大叔父・勘次郎氏と、父・武一氏に師事。

河井亮輝:透氏の長男。
河合家が育み高めてきた技法の数々を三代目、亮輝氏の作陶に受け継がれる。


河井工房のお皿を初めて手にした時、どっしりした重さに驚いた事を今でも覚えています。
その重みは毎日使うものだからこそ、むしろ使い勝手のよい安心と気持ちよさを感じました。

三代目 亮輝さんは、生まれた時から陶芸に囲まれた環境で生活を送られてきました。
ご両親からは陶芸家になりなさいと押し付けられた事は一度もなく、小学校の作文には「陶芸家 人間国宝になる」と書かれていたそうです。正直、この答えに驚きました。
本当は違う夢を抱いていても、長男として家業を継ぐ使命感がそうさせたのか?それとも自然な流れで?それとも・・?と疑問に思っていたからです。
当時のお住まいは、お風呂場と住居との間に工房があった為、毎日工房を通る生活。子供が出来るお手伝いをよくされてたそうです。
そして家の近くは、陶器屋が多く並ぶ所でそんな環境から、自分は陶芸に携わるやろぉな。と大学ではなく、自然の流れで東山の陶芸学校に入学されました。
卒業後は、ご両親と衝突をした時期があり、実家に住みながら約5年間は転々と違う仕事に就かれています。
4歳違いの弟さんが高校を卒業するタイミングで「兄貴フラフラしてるし、もぉ僕が継いで陶芸の学校に行くわ」とご両親に言うと、
お母様は「もし帰ってきて、兄弟で同じ仕事(作家業)をしたなら、うまくいかへんし。それに多分帰ってくるから、その場所は空けといてあげて」と返事されたお話を、亮輝さんは随分と時間がたってから聞かれたそうです。
弟さんは大工の道に進まれ、「もし弟が陶芸に携わっていたら、多分僕は家に帰ってないと思う」と仰っておられました。
しかし5年間違う仕事をしていた中で、自ら戻ろうと思われたキッカケとは・・。

実家暮らしをしながら平日は別の仕事に就き、週末は工房でお手伝いを続けてこられた亮輝さん。
河井工房では作品を作る沢山の工程を分担業ではなく、1~10迄お一人で完成させるスタイルで、それには「段取り」がとても重要です。
段取りが悪いお父様 透さんに対して口に出せないお弟子さんの声を、亮輝さんが代弁してお父様に伝えておられました。
その様な工房のヤキモキする日々から“僕がいな回らへん”と思うようになった事。そして結婚するタイミングが重なり、家業につく事を決められました。
相当な覚悟があったのでは?と聞いてみると、
「覚悟は全然ないですよ。フラ~と帰って。今日から始めますもなく、普通に。
親父も普通に接してた。周りも自然と受け入れて、お帰りもなく普通に。そんな感じでしたね」と。

陶芸学校卒業後は、父 透さんからの指導は喧嘩になるので、60年ほど工房にいらした職人さんから、沢山の事を教わったそうです。
「親父は陶芸の学校に行かず我流なんです。僕らは電動ロクロですけど、親父は足でける蹴ロクロなんです。僕はそれが全く出来ないですし、親父も電動のは分からないでしょうし。段取りの事ではよく衝突したんですけど、作った物に対してはダメ出しされた記憶は無いんです」

河井工房の三代目 亮輝さんにとって河井寛次郎さんは、
「生まれた時には、すでに他界されていて面識がないので、もの凄い方という存在ではあるけれど、僕にとっての一番の師匠は祖父 武一です」
祖父 武一さんと、父 透さんは、普段の生活において、もの凄く厳格で今の時代だとアウトなレベルで本当に厳しかったそうです。
工房では、やり方や段取りについて常に衝突をする父 透さんのお話もありましたが、
「やっぱり武一と透が、僕の原点かな」と残された言葉が印象的です。

 

生まれ育ってきた環境が大きく関わり、陶芸家で活躍をされていますが、
一方で、亮輝さんより少し下の世代、初代で陶芸家として活動されている方を、自分とは違う何かの差を感じておられ、それは作品においてではなく、
何もない所からその世界に飛び込む熱量や感覚。自己プロデュースなど、1人で色んな事に挑戦してすごくカッコイイと仰っておられました。
河井寛次郎の存在や、本来は変えなきゃいけなかった事もあったであろう、受け継がれてきたもの。
陶芸一家に生まれたからこその思いなのかもしれません。
しかし、陶器の器に囲まれて育ってきたのも、実は自分の強みなんだと、最近ちょっとだけ思う様になったとも仰せでした。

受け継がれる技法において、
「意識的に真似はしていなくて、ずっと見てきた物がこういう物なんで、自然とこういう物になっていくんです。
そこに、あえて亮輝の独自色を出そうとは一切考えた事はないですよ。
僕はどれ見ても親父と祖父の違いはすぐ分かります。僕や家族は三人の違いが分かるから、それでいいかなー。と思っています。
お皿が重たいという意見や、飲食店だと重ねて持って運ぶ事も多いので、時には少し軽くする工夫もしています。
食器は人の好みですから、こういうのが好きな方もいらっしゃれば、薄くてシャープなのが好きな方もいる」

「僕は好きなんですけどね。どっしりしてて。
これが一番いいところだと思っているんです」

 

今回、展示期間限定で河井工房のお皿とカップをお借りして、喫茶でお出しする際に使用させて頂きました。
河井工房の作品がお好きな方にとっては、滅多とない機会です
また、作品を初めて知る方にとっても楽しんで頂きました。

 

この先何年も大切に使い続けたいと思える器。
それを手にする時、何だか少しだけ心にゆとりが生まれる様に感じます。河井工房のお皿がそうでした。
皆様にもいつかそんな出会いがあります様に。。。